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【洋裁独学と手作りのジレンマ】あそび心だけでは服はつくれなかった

棚からあふれ出ている服とあそび心だけでは服はつくれなかったの文字


ひと夏の間

だれにも被ってもらえない

帽子があった

 

心のこもった

手作りの

帽子だ

白い棚の上に置かれた帽子置きとその上に置かれた茶色い帽子

はぎれの生地を

パッチワークのようにつなぎ合わせて

 

アップサイクルした帽子が

 

こどもには

まったく

 

ウケなかった

 

それどころか

 

 

こんなのかぶれない

 

 

手作り作品に対する

 大バッシングの始末

 

 

人はどうして(子どもまで!)

 

手作りを敬遠しがちなのか

 

さあ・・・

 

洋裁から離れた

行き場のない問いが降ってきたので

 

あくまで洋裁の手作り作品に関して

 

 

手作りが受け入れられるための

エッセンスとはなんだろうか?

 

という問いを立てて

 

考えてみた

 

 

 

ひとりぼっちの独学者が考える一億人の服のデザイン

 

一億人の服のデザインという本には

こんなことが書かれています

 

世界中を旅しているとウルトラライトダウンを着ている人と出会う確率が高くなりました。「ファッションとは自己表現でしょう。同じ服を着ている人が多いなんて嫌じゃないの?」少し前はそんな声も聞こえてきていました。

みなが同じ服を着ていていい。

僕はそう思います。

引用:滝沢直己 『1億人の服のデザイン』(2014) 日本経済新聞出版社 P10

 

ふむふむ。

 

 

どうして手作りの服はウケないのか

という

スケールの小さい問題のこたえを

 

1億人の服をつくっているデザイナー

の言葉から

探り出すのは

 

ナンセンスのような気もするのだが

 

この

 

1億人につくる服

 

こどもに被ってほしいと思って

ゼロから手作りする帽子

 

には

 

予算やスケールは違えど、

 

 

服をいちからつくるときの

 インスピレーションや 熱量

に限っていえば

 

少なからず

共通の根源があるのは

 

100歩譲って

 

確かである

 

じゃあどうして、ひとりのためにつくった服はひとりにさえ着てもらえなくて

1億人のためにつくった服は

1億人が着るのか

 

ここでまた

問いの問いが生まれ

 

本題から逸れてしまいそうなので

 

立ち戻って、手作り帽子のはなし

 

 

 

 

手作りはすばらしきかな

 

この手作り帽子をつくろうと思ってつくった流れを

ざっと時系列にしてみると

次のようになります

 

 蚤の市ではぎれさがし

 テキスタイルがいい感じのはぎれを発見

 家に持ち帰り数日放置

 夏らしい気候になってくる

 そういえば○○ちゃん帽子がほしいっていってた

 あ、これで帽子つくったらいいかんじかも

 よし、つくっちゃえ

 

 

 

ここで注目したい事は

 

 

あ、これでなにかつくりたい

 

 

 

帽子をつくろう

 

 

などの

 

 思いつき

 あそび心

 

洋裁独学の

 

大基盤であるということ

 

この

 

つくってみよう

 

 

行動と実践

という

 

 アクションを導いてくれる

 

きっと、創作の独学

という広範囲のテーマでも

 

ある程度

 

認知されているポジティブな

 

 

動機があるないに関わらず

湧いてくるエネルギー

 

 

まさに

 

 創作の熱源

 

しかし

 

そんなプラスのエネルギーに推し進められて

ものをつくった結果

 

 

だれも

被りたくない

帽子を生み出す

 

という

 

 創作パラドックスの沼

はまってしまったのである

 

 

デザインの痕跡

 

再び

『1億人の服のデザイン』を開いてみると

 

こんなことも書かれています。

 

1億人の服のデザインとはどうあるべきか。ものすごいチャレンジです。

ですが、エモーショナルなものも何もない、無味無臭の服をつくっていいわけではありません。デザインの痕跡がなければいけないし、袖を通したときの感動は、絶対に必要です。必然的にデザインしていかなければ、感動は生れません。

引用:滝沢直己 『1億人の服のデザイン』(2014) 日本経済新聞出版社  p21

 

あそび心はいらない?

 

ひとりで

思いつきやインスピレーションだけで

服をつくることも

 

あそび心を解放するだけだったら

いいことかもしれないけれど

 

誰かに

着てもらいたい

 

 

という気持ちが少しでも膨らむ瞬間があれば

 

この

 

 

必然的にデザインしていくこと

 

 

殆ど自動的に

 

必須になってくる

 

それは1億人のためであっても

誰かひとりのためであっても

たとえ自分のためであったとしても

 

必然的にデザインすること

 

によって

 

 着てもらえるものができる

 

ということになるのだろうか

 

洋裁独学のジレンマ

 

ここで洋裁独学のジレンマが生まれます

 

 

遊び心やインスピレーションだけで

アップサイクルした服は

ちゃんと型紙を元につくっているし

サイズだって

着てもらう人のそれに合わせているし

 

ある程度

計算されてつくられているはずなのに

 

必然的につくられているとは

いえないのか

 

 

 

いやひとりぼっっちで独学でつくったなら

これで十分ではないか

 

そういう風にいうこともできる

 

しかしここで個人的な体験から感じたことは

 

 

服は着たり、着てもらうことで

本当に生きる

 

ということである

 

飾られた絵でも

置物でもなくて

 

人間に着てもらわないと

ほとんど存在しないもの

 

になってしまう

 

それはひと夏の間

 

一度も被られなかった帽子を眺めていて

 

感じたことだった

 

被られなかった帽子の創作における必然ではなかったデザイン

 

では実際に

この帽子の必然ではなかったデザイン

洗いだしてみよう

 

  • 使用生地のかたさ

    ソフトな生地を使用したことにより

    帽子自体が立たない

  • 裏生地のチョイス

    質感や色彩の点で

    表生地との融和性にかける

  • ディテール

    縫い代を隠すために急遽とりつけたバイアステープが

    応急措置そのもののごとく目立つ

  • ディテール2

    小さな飾り程度に取り付けたはずだったフリンジが

    逆にデザインに違和感を与えている

 

 

あそび心と必然性のバランス

 

1億人の服のデザイナーがいっているように

 

エモーショナルなものもない

無味無臭の服はつまらない

 

だから

1億人が着ている服を

ただコピーするように

つくるだけの

 

機械的な独学なんて

 

つまらない

 

一方

 

だからこそ

 

あそび心やインスピレーションを昇華させるような

必然的なデザインや計画性が

 

必要

 

これは洋裁独学が

奥深くて

めんどくさい

自由でいて

縛りだらけ

 

ゆえに

 

洋裁独学のおもしろい

 

ところ?

 

でもあるのだろうか

 

洋裁独学は

 

 

服をつくることではなく

着られる、着てもらえる服をつくること

 

なのだと

 

当たり前でありそうで

そうでもなかったことに

 

今更

気付いたのだった

 

トップ画像写真 Ron Lach

https://www.pexels.com/fr-fr/chercher/ron%20lach/