洋裁を
ちゃんと習わずに
独学しているからなのか
納得がいく服が
できない
という嘆かわしい状況が
しばらく続いている
納得がいく服というのは
紛れもなく
自分で着たいと思える服である
自分で作った服を
着たくない
は
自分でつくったごはんをたべたくない
自分で選んだインテリア空間にいたくない
のような
自己制作したものを
自分で嫌う
という
創作一般を続けていく上で
あまり推奨できるメンタリティではない
そこで
何で自分でつくったものを
着たくないのだろうか?
を
自分のつくった服の
どこが気に入らないのだろう
という疑問に置き換えて
2着の服の検証と自己批評をしてみた
①エモーションが湧いてこない
自分サイズの原型を元にして
つくった2着のズボン
2着とも
出来上がったときに初めて着たときの
エモーショナルな感じが
全然ない
この
服を着た時の感動
みたいなものは
体がきれいにみえる
とか
着心地がいい
とか
機能面やデザイン面で目に見える
メリットと密接で
確かに
ポケットに手を入れると
掌の半分しか入らない
ポケットだった
とか
ハイウェストで履くはずだったのに
実際に履いてみると
骨盤が膨張しているように見える
のような
デメリットが
たとえ、ほんのささいなことだったとしても、
鏡に映ってしまうと
着たときの何となくいい感じ
という、うれしは、抹殺され
あれ、なんかおかしい
という
腑に落ちなさ
に変わってしまう
②ディテール
服の細部を
虫眼鏡でみるように
ちょっと目を凝らしてみてみると
雑な部分
というのが
見えてくる
たとえば
ロックミシンの縫い間隔が
せますぎる
●股下のプリーツの形が歪んでいる
●裾の処理を手縫いのまつり縫いにしたところ、表から縫い跡が浮き上がってみえる
ウエストベルトの左右が
ボタンをはめた時に、きっちり合わない
ETC…
完璧さと手仕事
さて
こんな小さな失敗ばかりが
目についてしまうのは
どうしてだろう
既製服を着ていた数十年の間で
細部まできれいな服に馴れすぎている
というのも
細部の失敗を許容できないことに
繋がっているのかもしれない
本来手作りである以上
ある程度の小さな失敗は
これでいいか
と処理してもいいはずである
ところが
いざ自分が
そうゆう服を着る段になると
不完成なものを纏っているような気持ち
になって
たかが服されど服
という
おそろしい感じもしてくる
③合わせる服がない
つくったはいいけど
ただ単に
合う服を持ち合わせていない
という理由もあったりする
そもそもの
2着のズボンの制作理由は
1着目:夏にはくなんとなく派手な半ズボンが欲しい
2着目:自転車に乗りやすいスカートのようなズボンがつくりたい
という明確な用途はあって
それに合わせる服
のことなんて
考える前に勢いにまかせてつくってしまった
という間抜けな理由もある
独学と批評
世の中に
完璧なものが
溢れていると
自分の手仕事の批評をするのは
あまり気持ちのいいことではないけれど
洋裁の独学
をしている現在進行形の人々にとって
ときどき自分の服が褒められる(へー自分でつくったんだ、すごいね、のような)
ということはあっても
鋭い視点で
批評をされる機会が
あまりないというのも
現実なのだというのを
実感する
そうすると
洋裁独学者は
いよいよ
本当に独りぼっちに
なってしまう
だから
ときどき
鋭い視点で
つくったものを
批評してくれる
だれか
が傍にいるというのが
一番理想的
であるのだろうが
そうゆう
正しい批評をしてくれる人
をみつけるのも
簡単なことではないので
当分
自分で自分の服を
批評することになるんだな…
と
開き直っている
今日この頃で
ある