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動画だけで洋裁を学んできたひとりぼっちの独学者がすすめる 動画で洋裁をはじめる前に知っておきたい【動画で学べる事】【学べないこと】

男性がミシンの置いてある机の前に腰掛けて真剣な顔で考え事をしている


今は教室や学校に行かなくても、動画で学ぶ時代、

 

そして洋裁だって、 多分に漏れず、たくさんの動画で、

 

かなり本格的に学ぶことができる。

 

特に洋裁のような、手を動かす学びの場合、

 

動画は本当に有益だ。

 

わたしははじめてズボンをつくった時に何度も視聴した動画のことを

今もよく憶えている

 

ズボンのウェストベルトの組み立て方と縫い方を

丁寧におしえてくれる動画で

 

その通りに手を動かしただけで、

 

本当に、それなりのものができた

 

その経験があってからしばらくは、

ありとあらゆる動画のマネをしながら

服作りを学んだ

 

洋裁本や服飾学校のテキストを買って

真自面に洋裁を勉強しなくても

洋裁は学べるんだ

 

という実感は、今でも変わらずある

 

それくらい

 

ひとりぼっちの独学者にとっては

 

動画は

心強い先生

そのものだ

 

動画さえあれば、洋裁の独学が可能である

 

と、 半ば、勝手に

 

確心してからは

 

洋裁本の購入の目的は、 専ら

 

型紙入手のためになった

 

服はつくれても

型紙がつくれなかった当時、

 

洋裁は、"服をつくること=縫製"

に限定された作業で

 

それで十分に満足してもいた。

 

しかし、 それから、 3年が経って、

 

洋裁は動画だけで本当に

本格的に

学ぶことができるか

改めて問い直してみると

 

ある段階までは学べる

 

でも

 

本格的に学ぶのだったら

 

動画だけでの学びでは

あまりにも

つまらない

 

と思う。

 

ここでいう

「つまらない」

には

2つの意味合いがある

 

ひとつは、

技術の習得という目的に特化されてしまう

動画の学びだけでは、

つまらない

 

ふたつめは、

 

映像と音声の両面からアプローチできる点で

短時間で様々な情報を収集できるという効率上の利点に

重きが置かれる動画だけの学びではつまらない

 

それぞれ、2つの意味合いから

 

なぜ、洋裁の独学は

動画だけではつまらないのか

 

少し具体的に

 

記してみたいと思います。

 

 

技術の習得という目的に特化されてしまう動画の学び だけでははつまらない

 

洋裁は技術であるという前題では、

 

洋裁の目的は、

 

うまく服をつくること

きれいな仕上がりの服をつくること

着る人の体に適格なサイズの服をつくること

 

など

とにかく、 うまくなること

 

に、指標が向けられがちだ。

 

実際に、わたし自身が目を通した洋裁本にも

洋裁独学を志す人たちへ

こんな風な応援メッセージが

記されていた

 

あなたにあった、抱負や目標を持ちましょう。あなたが抱いた最初の情熱を絶やさずに、このメソッドを学んでいくことができるように。

 

メソッドの練習の項目はすべて実践するように努めましょう。あなたにとってそれが、どんなに簡単なようにみえたとしても。

 

1、2週間の間で、2時間~4時間続けて時間をとる日を決めましょう。分散して時間をとるよりも、より継続的な時間の中で行う仕事の方が、向上をもたらします。

 

自分自身の型紙を引く前に、テストを実践しましょう。そして、何度も練習をしましょう。自身でつくったものを批評的に見て、修正しましょう。

 

本の章を飛ばすことは避けましょう。わたしたちのメソッドは、型紙の製図や縫製の過程で起こりえる様々な問題に向き合い、あなたが解決する手段を身に付けることを目的としています。このメソッドはすぐに服を完成させてあなた自身に着てもらうことだけを目的としているのではありません。

 

大事なことは、縫製の知識を身に付け、技術を備えること。

 

より専念すること。あなたの制作したものの仕上がりに気を配りましょう。自分自身に問いかけましょう、「最大限の力を発揮したか?」と。

翌日にもう一度、昨日制作したものを、見返しましょう。

 

もちろん、うまくなることを、ひとつの目標にするのは

 

大事なことではあるけれど

 

ひとりぼっちの洋裁独学の場合に限っていえば、

 

うまくなるためのことだけ学んでいては

 

気が持たない

興味が持たない

そして、持続しない

 

このような

 

"モチベーション要素"が矢なわれていくという事態

 

ひとりぼっちの洋裁独学者にとっては

あまりにも

致命的

 

なぜなら、

 

独学というのは、結局、1人で完結することであるから、

 

結果を評価してくれる人が、 いない。

 

結果というのは、

 

自分がつくった服の設計生地の選び方

縫製 プロセスの流れ

縫い方、 製作にかかった時間

 

など

 

すべての工程において、一切の評価基軸は

 

自分だけ

 

それは評価とはいわず自己評価

もしくは、 自己満足度止まりだ。

 

もし、ある程度の満足が得られたとしても、

 

それが

技術的

に、

 

そして

 

"服として

どれくらいの完成度なのか

 

他人の目線で判定されることがない

 

このような

 

独学という、ある意味特種な学びの領域においては

 

うまいか、うまくないか

 

という一種の呪縛から、

 

日々常々、自分自身を

 

解放させてあげる必要がある

 

この、"解放してあげる "手段のひとつとして

 

技術を学ぶ以外の学び

を取り入れる必要があるように思う。

 

そこで動画が提供してくれる技術、知識、ノウハウなどの

 

すべての上昇思考から距離をおいて

 

自分だけの洋裁の学び方を

同時進行的に確立していく

 

というのが

 

洋裁独学と長く付き合っていく上で

 

とても大事なことのような気がしている。

 

効率上の利点だけに特化した動画だけの学びではつまらない

 

動画の良し悪しに関わらず、

 

動画と洋裁という作業そのものの相称

 

というテーマで、考えてみると

 

動画と、洋裁の作業そのものというのは

 

相称がものすごくよくて、ものすごく悪い

 

わたしは動画で折りふせ縫いを学んだのだが、

 

これを実際に、

 

動画を、一際見ずにきるようになったのは、

 

動画を一際見ずに前回やった作業をうろ覚えでも思いだしながら

 

折りふせ縫いを自力で完成させたとき<だった

 

そして、折りふせ縫いの縫いしろ幅については今だに、自分で算出することができず

何度も、同じ動画に戻って、

「ああ、そうゆうことだったか」

と、 納得し、

でもまた次の機会になるとおぼえていない

 

動画だけを、毎回真似ながら学んだ技術においては、

このように、

 

なかなか手がおぼえない

という現象が、起こる

 

そこで立ち止まって考えたのは、

 

動画を見ながら洋裁を学んでいると思っている

 

というのが

 

大きな落とし穴

 

なのかもしれない

ということだ。

 

動画を横目で見ながら、再生と停止を繰り返し

見よう見まねで

手を動かしたとしても

 

実際には、動画を真似ているだけ

 

であって

 

それが、身体的に学ぶというところまでには

 

なかなか到達している感じがしない

 

真似しているだけ、というのは、

その場限りでできるようにはなる

そして、

また、 同じ動画を何度も見ながら、何度も同じ作業を繰り返したとして

できるようになるか、

というと

できるようにはなるけど

 

自分のものになったな、というような

あの感じが、なかなかやってこない

 

これがふたつめの落とし穴で

 

効率的に学ぶことだけが目的になると

 

本来の、体全体でおぼえることで習得していく

目をつぶっても手が動く

とでもいうような

 

身体を経由して獲得 される洋裁感覚

 

どうしても、ないがしろにされる。

 

こうしてみると、洋裁も スポーツと同じで

洋裁の技術や知識は1着の服を仕上げるという単純な目的の上に、成り立っている

 

体と脳のパフォーマンス

 

ということもできる。

では、 身体を経由して獲得される洋裁感覚とは

 

なんなのか

 

これは多分、 手をうごかして縫ったり切ったりしている時の

 

何も考えないでいられる状態でおこるなんかわかんないけど楽しい

 

あの感覚だ。

 

この、 なんかわかんないけど楽しい

 

いつか自然にやってくる、

ということもできるけれど

 

同時に、それが発露される環境を自分でつくる

 

というのも、ひとりぼっちの独学者にとっては、ものすごく大事で、

だから

 

ときどきは、このなんか楽しいのためだけに、

ありとあらゆる動画をOFFにして

 

手をうごかすことが

ひとりぼっちの洋裁独学を生きのびる

1番効率のいい方法

 

かもしれない