既製服の壁
雑誌をぱらぱらめくっていると
こんな服がつくりたい
と思うことが
とても頻繁にある
雑誌の中のその1着の服が
どんなプロセスでつくられているのか
というのは
なかなか調べないとわからないことで
どうにかこうにか調べて
既製服の製造プロセスというのを
一応はわかった気になっている
実際にその業界のことをまったく知らないので
調べたことと想像力で
1着の服ができるまでのプロセスを概念的に理解するしか
方法はないのだけれど
わかったことのひとつに、
既製服の製造のプロセスには
あらゆる人の手とアイデアが
つめ込まれている
ということだった
1着の服ができるまでの軌跡
言い換えれば、
既製服の製造プロセスには
ひとりではできないことを
みんなで力を出し合って
形にしていこう
という
チームプレイ精神がある
そして
その成果としての
完成品であり、
みんなでつくり上げた服だからこそ
無駄のない
洗練された
既製服が製造され
世に送り出される
ひとりぼっちの洋裁独学者の限界
そして、立ち返って、
ひとりぼっちの洋裁独学者は
どのようにして
服をデザイン、製作していくか
である
洋裁初心者、独学者は
だいたい、ひとりぼっちである場合が多いと仮定すると
まず、ひとりの体力と思考力に
限界がある
この限界は
洋裁に限らず
どんな類の創作一般にいえることかもしれない
ひとりぼっちは弱い
けれど、洋裁に限って考えると
機械や技術や時間は買えるとして
上のすべてが揃ったとしても
- デザインのディテールを練り上げるための意見交換
- 限られた予算の中で構築するオリジナリティの追及
- 限られた時間の中で発揮できる技術面でのノウハウや職人技
など
人と人とのコミュニケーションの中でしか生まれ得ない解決や
最先端のテクノロジーとコミットした現場との協力といった
マンパワーにおいては
それを、洋裁独学者、人間ひとりの力量で
代替するとなると
とてつもないパワーがない限り
ほとんど不可能なことである
デザインとは、70パーセントがリサーチ,30パーセントが応用
引用:滝沢直己 1億人の服のデザイン 日本経済新聞社出版 p100
という有名なデザイナーの言葉が
あるけれど
この
70パーセントのリサーチ
というのは、既成服づくりの現場
というのをすごくよく表していると
勝手に思ったりもしている
70パーセントのリサーチ
70パーセントのリサーチを
アイデアや技術、マテリアルの収集や、発掘作業
と考えたら
それらを伝達したり、紹介したり、開発したりするための
人と時間が動員されている
ことは言わずもがな
効率的に、でも、完璧にいいものをつくるための
見えない労力や費用が惜しみなくつぎ込まれている
そしてこのプロセスの有無が、
既製服と洋裁独学者がつくる服
そのものの
くっきりとした違いとして現われる
ところ
でもある
洋裁独学者の製作プロセス
これらの既製服の
デザインから製造までの一連のプロセスを
知ってしまうと
ふと机にひとりぼっちで座っている
洋裁独学者は
なんだか途方に暮れる
ここで、ひとつの問い
みんなでアイデアを出し合って
デザインを吟味し
仮縫製を何度も繰り返し
そのたびに補正を施し
生まれる既成服の
これらのプロセスを
そのままひとりぼっちの洋裁独学者のプロセスに当てはめる
ことは
ナンセンスなのではないか
アイデアと現実
ひとりひとりの洋裁独学者には
きっと
というビジョンがある
そしてそれはきっと
デザイン画や、3Dモデルで
視覚的に
表現できる
しかし
その想像とは裏腹に
この洋服をつくるためには
どんな生地が必要で
どんな型紙が必要で
どんなアクセサリーが必要で
これだけの縫製技術が必要で
これだけの時間が必要で
これだけの予算が必要で
という
縫製以前の
最もデリケートなタスクが
降りかかってくる
また
この作業の思考プロセスが
まさに
既製服の製造プロセスの型を追随していて
完成品=ゴール
製作過程=ゴールまでの道のり
という
段階的な目標達成プロセスと共に
どうしても
ついてまわる
そして、この思考プロセス
を採用することは
決して終始一貫してナンセンスではないけれど
ひとりぼっちの洋裁初心者、独学者にとっては
正直
しんどいプロセス
にもなり得る
洋裁独学者の特権
既製服の製造プロセスをみてみると
アイデアの取捨選択、製造工程の効率化、予算との兼ね合い、
など
あらゆる面で調整すべき事柄ばかりだけれど
洋裁独学者の特権は
それらを、全部無視してもいい
ということがひとつにある
確かに予算や時間はついてまわるものだ
そのことによって
自分がつくりたいと思っている服が
ボツになるかもしれない
でも
ボツは永遠にボツにはならない
それは自分のアイデアノートに
大切に保管しておくこともできる
製作を効率化する
という考え方も
ひとりぼっちの洋裁独学者にとっては
そこまで大事になるかどうか
製作は
楽しむことやリラックスすることや自分だけの達成感の
総体的な心情とつながっていたりもするから
一重に作業の効率化
という枠に収められてしまうと
ひとりぼっちである意味も
独学者である意味も
なくなってしまうのではないか
と思ったりもする
これは
手を動かしていてふと気がついたことだったのだけれど
プロセスなんて無視してOK
誰にも文句を言われない
というのは
ひとりぼっちの洋裁独学者の
最大の特権
なのかもしれない
そして再び、ひとりぼっちの洋裁独学者のためのプロセス
では、この自由なフィールドに立っている
ひとりぼっちの洋裁独学者たちは
どんな自己の製作プロセスを
築いていくことが
できるのだろう
ひとりぼっちの洋裁独学者は
自分だけの服作りのプロセスを
構築することが
本当にできるのだろうか。